1.
沖縄で沖縄人男性とアメリカ人男性が恋に落ちること。それは可能なのだろうか。それぞれの言葉があり、翻訳され、取りこぼされ、誤訳される言葉がある。隔てられたそれぞれの場所で、ふたりが見る風景はどう違い、ふたりはどれだけ近づくことができるのか。

ある土地における男性性のあらわれと、関係性。そこにある隔たりは、どのようなものなのだろう。新城郁夫氏(文学批評、琉球大学教授)との何度かのメールのやり取りのなか、隔たりは「そう意識されなくとも人が共に生きている(生きていた)ことの、ほとんど絶対的な条件」という彼の言葉に、僕はふと気づく。必ずしも全てが絶望的な断絶ではなく、薄い膜のような、寄り添いの可能性に満ちた隔たりも存在するということ。レースのカーテン、ベッドシーツ、肌。アロハシャツ。そして、壁や塀、森と海。あるいは、言葉、人種、年齢、セクシュアリティ、コミュニティ。沖縄は、そういった「隔たり」が強く意識される場所で、それは、そこが歴史、政治、地理の上で幾つもの線を引かれた島だからかもしれないし、だからこそ、隣にいるかもしれない誰かを、とても大切に求めるのかもしれない。

沖縄にいた頃、高校生の僕はクローゼットの中でずっとアメリカに憧れ、アメリカ映画を観て長い時間を過ごした。そのうちに沖縄を離れ、アメリカに長く住んだあと東京に移り、あこがれはゆるやかで確かな諦めとなる。覚えた英語はどんどん忘れて、それに対して為す術もない。沖縄に帰る度に街中を見回すけど、目にするアメリカ人は相変わらず兵士ばかり。でも僕はアメリカンボーイフレンドという関係の可能性を探す。ふとした瞬間に現れる隔たり、社会の間隙よりもさらにわずかな切れ目の向こうに見え隠れするその可能性が、僕と沖縄を結びつけている。沖縄で沖縄人男性とアメリカ人男性が恋に落ちること。何度沖縄に帰っても、僕はその関係を、そこに存在するであろう、豊かな隔たりを見つける事はできなかった。でも、その存在のありかを求め続ける事で、僕はふるさとに自らの場所を見つけ出そうとしている。(2012)

2.
僕は『American Boyfriend』を通して沖縄人男性とアメリカ人男性が恋に落ちることの関係可能性を探り続けて来たけれど、沖縄はその関係を隠蔽してしまう暴力的かつホモソーシャルな抑圧をときに発動する。だからこそ、そこで隠蔽されるひそやかな関係性について語ることは、沖縄の社会や性をとりまく政治(ひいては、沖縄に関与する日本やアメリカの政治)に抗うささやかな希望になり得ると僕は信じている。そのためにも、歴史を辿り、埋もれた小さな声たちに耳を澄まさなければならない。

しかしそれらの小さな声は言葉を奪われた存在でもある。僕は、小説や現代思想を含むさまざまな文献、音楽、映画、詩などを引用しながら沖縄に隠された豊かな語りの可能性を探り、その極めてささやかな語りを発動させる装置としての記憶の断片を探し続けている。那覇の骨董品屋で買った昔の写真、パウル・ツェランの詩、実家のアルバムにはさまれた幼なじみのスナップ、YouTubeで偶然見つけた1945年のアメリカンポップソング、東京ローズのラジオ、戦時中のベートーヴェンとフルトヴェングラー、サリンジャーの『ゾーイー』、忘れかけていた1995年のJポップ…太平洋戦争、アメリカ軍占領期、僕自身の十代、そして現在。 東京、沖縄、 アメリカ、ナチスドイツ。語り継がれた記憶、忘れられた記憶、語られずに消えていく記憶、作られた記憶、僕の記憶。様々な時代の様々な場所で記され、時にねつ造された断片たちが、 連なり、こぼれおち、沖縄におけるある物語の輪郭を作り上げては変容してゆく。一連の作業は、まるで僕の中に存在するはずのない記憶の源流を探るような、とても親密なものだった。すべては「たとえば」で繋がり、物語を形作る。その物語が、小さな声で異議をたて続けている。

いま必要なのは、もしかすると、そのような小さな声との曖昧な対話を続けながら、「起こったかもしれない記憶」をたどる想像力なのかもしれない。「たとえば」から始まる語りを、それが導きだす豊かな関係性を、その無限の広がりを、僕は探り続けている。(2013)