『Proust in Love』を読んで、長く手を出せなかったプルーストの『失われた時を求めて』を読み始めた。第一篇「スワン家の方へ」において、ブルジョワであるスワンは、高級娼婦であったオデットに恋をする。彼は、オデットにボッティチェリが壁画「モーセの生涯」に描いた女性・チッポラの面影を見て、それから彼女に惹かれ始める。きっかけは、ボッティチェリの絵画。

第二篇「花咲く乙女たちの影に」、オデットと結婚したスワンは、あるとき彼女のためにドレス用の布をオーダーする。それは、ボッティチェリの「プリマヴェーラ」でフローラが着ていたものと同じ柄だった。クロリスからフローラへの転生に、スワンはオデットを重ねていたのかもしれない。

彼はまた、オデットに作曲家ヴァントイユのヴァイオリンとピアノのためのソナタからの一節、ピアノのパートを弾くよう何度もお願いする。それは、かつてアーンにサン=サーンスのソナタを弾くようせがんだプルースト自身の経験が基になっているという。アーンとプルーストにとって、幸せな時期を象徴するサン=サーンスのソナタ。物語のなかで、それがスワンとオデットの関係へと受け継がれてゆく。また、プルーストが『失われた時を求めて』執筆前に書いていた『ジャン・サントゥイユ』において、主人公と恋人の関係を象徴するように(ほとんどスワンとオデットの関係と重なるように)、サン=サーンスのソナタが奏でられる。

『Proust in Love』によれば、1985年の夏、アーンとプルーストは連れ立ってバカンスに出かけている。最初の目的地ディエップで、知人からプルーストはサン=サーンスを紹介されている。その後はブルターニュ沖の離島、ベル=イル=アン=メールにあるサラ・ベルナールの別荘を訪ねる予定だったものの、プルーストの体調が崩れ、予定を変更して本土側の小さな村ベッグ・メイユに滞在する。美しくのどかな海辺の風景に囲まれプルーストの体調も良くなり、そしてその夏、彼は『ジャン・サントゥイユ』の構想を思いついたようだ。

アーンとプルーストはその旅の途中、クロリスについて話していたのだろうか。どちらの作品にも登場する、花の妖精・女神について、ふたりはどのような話したのだろう。もしかしたら、若い恋の記憶が「クロリスに」のメロディーに結びついているかもしれない。プルーストがあの夏『ジャン・サントゥイユ』について考え始め、それが『失われた時を求めて』に繋がっていったように。

彼はそのかわりに、ヴァントゥイユのソナタの小楽節を弾いてくれと頼む。オデットのピアノはひどくまずかったけれども、ある作品のなかで私たちの内に残っている一番美しい光景は、往々にして下手な指先で、音律の狂ったピアノから引き出される調子はずれの音などを超越しているものだ。小楽節はスワンにとって、やはりオデットに対する恋に結びついていた。
プルースト著(鈴木道彦訳)『失われた時を求めて』第一編「スワン家の方へ II」(集英社、1997年)




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