私はおちこぼれのまま終わることが、ずっと怖かった。君たちと同じような思いを、私もずっと抱いていたかもしれない…。いつも蹂躙されてばかり、と。だけど、今ではどちらが敗者で、どちらが勝者なのか、私にはわからない。

別に世界を制したいわけじゃない。私はすっかり折り合いをつけたよ。自分の野望と、自分の限界と…。
ダニエル・マン監督、『八月十五夜の茶屋』(MGM、1956年公開)

数人のインタビューやいくつかのリサーチを終えたあと、それらとESさんから教えて貰った「雨だれ」の物語を交えて、物語を作ってみることにした。そしてそのなかで、『Ocean View Resort』でも参照していた映画『八月十五夜の茶屋』を再び引用する。終戦直後の沖縄で交わされた兵士の言葉は、理想主義的で美しいものだ。けれども、それがベトナム戦争時代の沖縄で語られた時、そこに絶望が現れる。その時代にその言葉を語った兵士はベトナムに行き、ぼろぼろになってしまうかもしれない。そして、アメリカがベトナムで行ったことを、その後の歴史を知っているから。また、『Ocean View Resort』と近い、男性間のロマンティックかつ刹那的な出会いの物語にしようと考えた。

1940年代中頃の物語(『Ocean View Resort』と『八月十五夜の茶屋』)を、1970年代を舞台にして繰り返すこと。時代を変えて物語を繰り返せば、当然その物語を取り巻く文脈も変わり、物語のありかたも変化する。そして、新たに見えてくるものごとがあるはず。

それは例えば、ダグラス・サークの『天はすべて許し給う』を、1970年代のドイツを舞台に、初老のドイツ人女性と若いモロッコ移民の男性とのメロドラマに置き換えたR・W・ファスビンダーの『不安と魂』、そしてさらに2000年代に発表され、『天はすべて許し給う』と同じく1950年代アメリカを舞台に、主人公の夫をゲイに、恋に落ちる庭師を黒人男性に置き換えたトッド・ヘインズの『エデンより彼方に』が行った語り直しのように、その時代(舞台設定の年代と、映画が発表された年代)に存在する問題に言及できるのではないだろうか。そんな風に考えた。

メロドラマの語り直しについての映像作品。それならば、音楽はバッハのシャコンヌにしようと考えた。後世のロマン派の音楽家たちがそれぞれのやり方でシャコンヌを演じ直したように、物語は繰り返され、ある時代についての、さまざまなことを明らかにしてゆくはず。

アメリカで退役軍人のインタビューをした後、ベトナム戦争時代に沖縄で青春時代を過ごした沖縄人男性に会う機会を得た。根っからの音楽好きらしい彼は、その時代を「古き良き時代」と冗談のように言って笑った。慰問演奏で、有名なミュージシャンが多く沖縄を訪れていたこともあり、たくさんのポップミュージックやロックをフェンス越しに聞き、米軍のクラブに潜り込んだ。もちろん、残酷な場面にもいろいろ遭遇して、アメリカ統治時代の不条理を体験した。70年代。黒人への差別や、銃を突きつけられて連行される軍人の姿も目にしていた。

インタビューのためにカメラをセットして、忘れ物を取りにその場を離れたとき偶然カメラが録画状態になっていて、画面に入り込んできた彼がピアノを弾き始める。あわててカメラのもとに戻り、マイクの電源を入れた。聞き直したけど、途中までノイズ混じりの録音だった。意図した録音ではないので使わないほうがいいかなと思ったけれど、同時にそれは古い音源を聴いてるような、とても美しいものにも感じた。

夜は集まった数人で酒を飲みながら、満月を眺めていた。こういう沖縄の居場所もあるのだと満足感にひとり密やかに浸りながら。

ベトナム戦争時代の沖縄についての作品を作りたいと思い、アメリカに渡ってある退役軍人にインタビューを行った。サンフランシスコ郊外にあるヘイワードという町に、ゲイのベトナム退役軍人がバーを切り盛りしている。

彼はベトナムから帰国後、男性の恋人ができて奥さんと別れ、ドラッグやアルコール漬けの生活を送るようになる。そんななかでゲイバーを始め、ゲイ解放運動に参加し、その活動を通してどうにか立ち直って行く。当時はハーヴェイ・ミルクが居た時代で、彼らと共闘していたこともあったらしい。沖縄に滞在は?と聞くと、ベトナムに渡る前にほんの少しいたけれど、ほとんど記憶にない、という。少し前から、ゲイバーという名称を自身の店に使うことをやめて、セクシャリティーやジェンダーの境なく誰でも来れるように、ただの「バー」にしたんだ、と彼が嬉しそうに言っていた。子供はいたのかな、とふと考えが浮かんだけれど、その質問だけはなぜか出来ずに、僕はインタビューを終えて小さな町を後にした。

旧ヒルトンホテルに泊まった次の朝。高速バスに乗り、名護バスターミナルでローカル線に乗り換え、辺野古に向かう。

前回来た時は確か6年前で、その時沖縄側の浜辺と基地を分断していたフェンスは、背の低い有刺鉄線による、刺々しいものだった。それが立て替えられ、コンクリート土台の背の高い無骨なものに変わっていた。

波打ち際で、十人程の人々がカヌーの用意をしていた。しばらく見ていると彼らは海へと漕ぎだしていく。向こうの方で遠く監視船からの警告がうっすらと聞こえるけど、なんと言っているのか、よくわからない。それから、近隣の住宅街を歩く。少し居心地の悪さを感じてしまうのは、よそ者だからだろうか。当たり障りのないものを、時々そっと写真に収める。雨だれの家も、この辺りにあったはず。でも、手がかりは何もない。30分ほど歩き、それから30分ほどバスを待って、那覇に戻った。

Henoko from Futoshi Miyagi on Vimeo.

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旧ヒルトンホテル。バーで飲み足りず、部屋で缶のオリオンビールを開け、外の風景を眺めながら飲んでいた。パソコンを開いてiTunesで音楽を流す。バッハの「シャコンヌ」にシューマンがピアノ伴奏をつけたもの。ダニエル・セペックのヴァイオリンと、アンドレアス・シュタイアーのピアノ。バッハのヴァイオリンだけの演奏よりも、この録音ばかりを最近は聞いていた。その他にも、メンデルスゾーンやレッセルがピアノ伴奏をつけたものやブゾーニやブラームスによるピアノ版も聞いてみたけれど、シューマンのものが一番しっくりきた。

メンデルスゾーンによって再発見されたバッハの音楽。ロマン派の音楽家たちはその音楽を再解釈しようと試みた。特に、ヴァイオリンだけで演奏されるシャコンヌはさまざまな解釈がなされていた。彼らは自分たちなりのシャコンヌを鳴らそうとしたのかもしれない。僕はロマン派の作曲家の中でも、シューマンの二面性に強く惹かれていた。たとえば、批評家としても活動していた彼がテキストの中で作り上げた、オイゼビウスとフロレスタンというふたりのキャラクター。彼らを含む「ダヴィッド同盟」という奇妙なグループ内での対話を通して批評は展開される。まるで物語のように。そして、対話のようにピアノとヴァイオリンが対等に鳴り響く彼のシャコンヌは、最もロマン派的な音楽に聞こえた。

パソコンから流れてた短調のシャコンヌが、長調に変わる。

目の前に広がる夜景を眺めながら、このまま長調が続いたらいいのに、と思っていた(ベートーヴェンの音楽のように)。1970年代にこの旧ヒルトンホテルで一時を過ごしたアメリカ兵たちは、どうなってしまったんだろう。沖縄での滞在がひとときの息抜きとなった、いつかアメリカで退役軍人から聞いたそんな言葉が思い出された。その時の沖縄側の状況も知識としてあったから、その言葉に妙な居心地の悪さを感じていたことを覚えている。楽しかったことは確かに覚えている、でも詳細な記憶が抜け落ちているんだ、とベトナム戦争を経験した彼は言っていた。

シューマンがピアノ伴奏をつけたシャコンヌは、長調部分の最後のフレーズで短調に転調する。まるでその後訪れる短調をあらかじめ予見するかのように。一方でメンデルスゾーンの版は、長調が長調のままで終わる。長調の余韻を残したまま、短調のシャコンヌが再開される。たとえそれから最後まで短調のままで音楽が終わることになっても、常に、わずかに、長調の記憶が残っている。

 

多くの若い精神のなかには、自分では土台の石ひとつ運ばなかった高所にたっているくせに、その恩を忘れて、さらに新たな境地を開くことを省みないものも多いが、これは近来のあらゆる世代のおかしている狭量の仕業だ。

しかもどうやら、今後も当分この様子が続きそうに思われる。僕もその若者の一人にちがいないが、この点ではたとえ相手が最愛のフロレスタンであろうとも、甘んじて手を握りあう気になれない。

フロレスタン−もし、君がどこかの大王だったとして、たまたま一戦を失ったために、臣下の者どもから紫の衣を剥ぎとられるような目にあったら、憤慨して、恩知らずども!と言わないだろうか。−

オイゼビウス

これはオイゼビウスらしい、いかにもお美しいお心掛けだが、笑止千万、片腹痛い。いかに君たちが躍起となって君たちの時計の針を戻そうとも、これから先も相変わらず太陽はのぼるのだ。

いかにも、僕は、あらゆる現象にそれぞれの処を得せしめるという、君の心がまえを高く買ってはいるが、結局君は偽装ロマン主義者だと睨んでいるんだ−そのほかの名は御遠慮申そう。下らぬ名前をつけても、いずれ時が洗い落すだろうから。

フロレスタン

シューマン著(吉田秀和訳)『音楽と音楽家』

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2014年11月。翌年のグループ展に出展する予定の作品制作のため沖縄に滞在することになった。初日に宿泊するホテルは決めていた。北中城にある、かつてのヒルトン・オキナワ。北中城に着いた頃には、すっかり日は暮れていた。

その2ヶ月ほど前の9月。ESさんに連れられて荻窪の名曲喫茶に行くと、ずいぶん明るい店内に拍子抜けした。窓が開け放たれている。一週間前にお店を閉じたのだと良い、ESさんが聴いたという沖縄人ピアニストによる「雨だれ」のレコードも含め全部売り払ったのだと知らされた。
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北中城のバス停で降りたのは僕ひとりで、目の前は米軍基地だった。申し訳なさそうに設置された高速道路のバス停から、細い階段がフェンスに沿うように続いている。高速の下の真っ暗なトンネルをくぐり抜けると、反対側は山沿いの小さな集落となっていた。山の上を見上げると、ライトアップされたホテル。なだらかに見えた山の山頂へは獣道のような曲がりくねった小径を進むことになり、11月だというのに汗だくになってしまった。ホテルにたどり着き、チェックインをすませて部屋で一息つく。ヒルトンやその後このホテルを買収した企業が撤退した後は長らく廃墟だったらしい建物は、数年前に地元の企業が買収し、新たなホテルとして開業していた。造りはヒルトン当時から大きく変わっていないように思えた。

汗がひいて、地下にあるバーへと向かう。山の頂上に建っているため、地下と言っても窓の外は開けた風景が広がっていた。エレベーターを降り、団体客で賑わうロビーを左に進むと、ピアノの音が聞こえた。僕でも知っているジャズのスタンダードナンバー。角を曲がると、目の前に巨大な窓があり、その向こうに綺麗な夜景が広がっている。円を描くようにバーへと降りる階段を下り、窓側の席に座ってビールを頼んだ。なんの曲だっただろうか。そう思っているうちに曲が終わり、まばらな拍手。ピアノを弾いていた初老の男性が椅子に座ったまま軽く頭を下げた。
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窓の外の夜景を見下ろす。方角的に、眼下に広がる夜の滑走路みたいな均一な光の列は、米軍の居住区だろうか。ヒルトン時代にここに泊まっていたアメリカ人たちは、その光を見ながら酒を飲んでいたのかと思うと不思議な気分になった。アメリカのホテル、アメリカの地区。その隙間の暗闇が、沖縄。ピアニストが、次の曲を弾き始める。ブラームスの間奏曲Op.118-2だった。大きな窓の外の夜景を見ながら、似たような場所でこの音楽を聴いたことが以前にもあったように思え記憶を辿るけれど、どうしても思い出せない。

曲が終わり二杯目のビールが届けられた頃に思い出した。自分の体験などではなく、ダグラス・サークの映画『天はすべて許し給う』だ。ロック・ハドソンが自ら改築した山小屋風の自宅に招かれたジェーン・ワイマン(庭師のハドソンと中流階級の未亡人ワイマンの恋は、身分不相応と町のひとびとの噂になっている)。彼女は、「なんて大きな窓!」と外の景色を見ながら言う。そこで流れるメロディーは、ブラームスの交響曲一番・第四楽章のホルンの主題をアレンジしたもの。少し酔っ払い、手持ち無沙汰になってウィキペディアのブラームス交響曲一番のページを流し見ていると、ブラームスがクララ・シューマンに宛てた手紙のなかで、この主題に、「高い山から、深い谷から、君に何千回も挨拶しよう」という歌詞を付けて送っていたということを知った。ずいぶんロマンチックだと思いながら目前の風景に改めて目を向け、自分は今高い山の上にいるのだな、と妙な気持ちになった。今ここから「挨拶」しても、沖縄を通り過ぎてその向こうのアメリカに届くのだろう。

沖縄にあったふたつのホテル、沖縄ヒルトンと亡霊ホテル(といつの間にかにESさんが呼び始めていた)の話をしていて、旧帝国ホテルでの両親の出会いをフィクショナルに再構築したサイモン・フジワラの「Aphrodisiac Foundations」の話になる。ふたりとも、Taro Nasuでの展示をオープニングの日に見ていた。気づかなかった、バーで隣り合ってたりしなかったのかな。そんな風に話して、帝国ホテルを見に行こうと日が落ちた新橋の街を内幸町方面に歩き、日比谷に向かう。日比谷にはほとんど来たことがないと僕が言うと、ESさんによる即興的な夜のツアーが始まった。奇妙にトロピカルに感じる日比谷公園に入り、しばらく歩いていると、帝国ホテルが目に入る。縦に伸びる直線的なホテル、そしてそれを囲むビル群。ここにフランク・ロイド・ライトの旧帝国ホテルが建っていたことを想像することができなくて、『Aphrodisiac Foundations』の物語をうまく投影できない。イギリス人の女性ダンサーが辿るルート、日本人の建築家が辿るルートはどんなだったか。たしか、ふたりの足取りが交わる場所はバーだっただろうか。思い出せない。そして、その作品が『二十四時間の情事』を連想させることに今更ながら気づく。原爆投下後の広島についての長いオープニングシークエンスのあと、新広島ホテルのベッドの上で、フランス人女優と日本人建築家が笑い、語り合う。ふたりはじゃれあい、女はコーヒーを手にバルコニーに出て、青空が広がる広島の街を望む。浴衣を着ている。男はまどろんでいる。ふたりはシャワーを浴び、女は撮影用の衣装に着替える。看護婦姿だ。男はシャツを着て腕時計をつける。一緒に、部屋を出て、ホテルから広島の街に出る。

公園を出て帝国ホテルを左手に進むと、東京宝塚劇場。ここも建て替えられてしまったけど、旧劇場は終戦後に接収されアーニー・パイル劇場と改名され、主に駐留軍関係者向けの公演を行っていた。日本人が客として足を踏み入れることは許されなかったが、演者として多くの日本人ミュージシャンやダンサーたちがここで演じた。この劇場で戦後、日本に兵士として派遣されていたホルヘ・ボレットがオペレッタ『ミカド』を指揮していた。ボレットはピアニストとして同劇場の小ホールで演奏もしており、後年アメリカで高く評価された。でもそれは、ずっとあとの話。劇場名となった従軍ジャーナリスト、アーニー・パイルは1945年4月、沖縄の伊江島で死亡した。帝国劇場。そこは接収されることはなく、日本人向けの演目が多く催された。1946年に、ここで戦時中欧州にいた女性ヴァイオリニストが日本人観客に向けてバッハの無伴奏バイオリン曲を演奏した。誰だっただろうか?ゲッペルスからストラティヴァリウスを贈られたという…。

皇居前広場。言葉を交わすでもなく、ふたりとも広くなった夜空を見上げながら歩く。僕は過去にここで騒動を起こした沖縄人活動家たちについて考える。たしか、71年に皇居突入を企てた活動家グループがいた。その1年前、「朝鮮人と二十才以下の者は降ろす!」と叫び、アメリカ人宣教師に刃物をつきつけ東京タワーを占拠した富村順一もここで街宣活動をしていたらしい。そういえば、『ミカド』が上映されたアーニー・パイル劇場は、こんなにも皇居から近かったのか、と少し不思議な気分になる。どんなオペレッタなのだろう。しばらく歩くと、東京国立近代美術館。とっくに閉館時間を過ぎている。今やっている企画展は…ヤゲオ財団コレクション展か…久しぶりに所蔵作品展を見たいな…そんな話をしながら、竹橋の駅でESさんと別れた。

自宅に戻り、『ミカド』の映像をYouTubeで探す。派手な乱痴気騒ぎ。初演は1885年、ジャポニズムの時代。『ミカド』は、今でも時々上演されるポピュラーな演目らしい。




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(C) 2012-2015 Futoshi Miyagi