ベトナム戦争時代の沖縄についての作品を作りたいと思い、アメリカに渡ってある退役軍人にインタビューを行った。サンフランシスコ郊外にあるヘイワードという町に、ゲイのベトナム退役軍人がバーを切り盛りしている。

彼はベトナムから帰国後、男性の恋人ができて奥さんと別れ、ドラッグやアルコール漬けの生活を送るようになる。そんななかでゲイバーを始め、ゲイ解放運動に参加し、その活動を通してどうにか立ち直って行く。当時はハーヴェイ・ミルクが居た時代で、彼らと共闘していたこともあったらしい。沖縄に滞在は?と聞くと、ベトナムに渡る前にほんの少しいたけれど、ほとんど記憶にない、という。少し前から、ゲイバーという名称を自身の店に使うことをやめて、セクシャリティーやジェンダーの境なく誰でも来れるように、ただの「バー」にしたんだ、と彼が嬉しそうに言っていた。子供はいたのかな、とふと考えが浮かんだけれど、その質問だけはなぜか出来ずに、僕はインタビューを終えて小さな町を後にした。

旧ヒルトンホテルに泊まった次の朝。高速バスに乗り、名護バスターミナルでローカル線に乗り換え、辺野古に向かう。

前回来た時は確か6年前で、その時沖縄側の浜辺と基地を分断していたフェンスは、背の低い有刺鉄線による、刺々しいものだった。それが立て替えられ、コンクリート土台の背の高い無骨なものに変わっていた。

波打ち際で、十人程の人々がカヌーの用意をしていた。しばらく見ていると彼らは海へと漕ぎだしていく。向こうの方で遠く監視船からの警告がうっすらと聞こえるけど、なんと言っているのか、よくわからない。それから、近隣の住宅街を歩く。少し居心地の悪さを感じてしまうのは、よそ者だからだろうか。当たり障りのないものを、時々そっと写真に収める。雨だれの家も、この辺りにあったはず。でも、手がかりは何もない。30分ほど歩き、それから30分ほどバスを待って、那覇に戻った。

Henoko from Futoshi Miyagi on Vimeo.

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旧ヒルトンホテル。バーで飲み足りず、部屋で缶のオリオンビールを開け、外の風景を眺めながら飲んでいた。パソコンを開いてiTunesで音楽を流す。バッハの「シャコンヌ」にシューマンがピアノ伴奏をつけたもの。ダニエル・セペックのヴァイオリンと、アンドレアス・シュタイアーのピアノ。バッハのヴァイオリンだけの演奏よりも、この録音ばかりを最近は聞いていた。その他にも、メンデルスゾーンやレッセルがピアノ伴奏をつけたものやブゾーニやブラームスによるピアノ版も聞いてみたけれど、シューマンのものが一番しっくりきた。

メンデルスゾーンによって「再発見」されたバッハの音楽。ロマン派の音楽家たちはその音楽を再解釈しようと試みた。特に、ヴァイオリンだけで演奏されるシャコンヌはさまざまな解釈がなされていた。彼らは自分たちなりのシャコンヌを鳴らそうとしたのかもしれない。僕は、ロマン派の作曲家の中でも、シューマンの二面性に強く惹かれていた。たとえば、批評家としても活動していた彼がテキストの中で作り上げた、オイゼビウスとフロレスタンというシューマン自身の二つの面を代弁していたというふたり。彼らを含む「ダヴィッド同盟」という奇妙なグループ、彼らの対話を通して批評は展開される。まるで物語のように。同じように、彼の音楽には物語があるように感じていた(たとえば、『ダヴィッド同盟舞曲集』や『子供の情景』)。そして、対話のようにピアノとヴァイオリンが対等に鳴り響く彼のシャコンヌは、最もロマン派的な音楽に聞こえた。

パソコンから流れてた短調のシャコンヌが、長調に変わる。

目の前に広がる、綺麗な夜景を眺めながら、このまま長調が続いたらいいのに、と思っていた(ベートーヴェンの音楽のように)。それでも、すぐに長調は短調に戻る。1970年代にこの旧ヒルトンホテルで一時を過ごしたアメリカ兵たち、その後ベトナムに行ったであろう彼らの多くは、どうなってしまったんだろう。沖縄での一時期が、幸せな、ひとときの息抜きとなった、いつかアメリカで老いた退役軍人から聞いたそんな言葉が思い出された。その時の沖縄側の状況も知識としてあったから、その言葉に妙な居心地の悪さを感じていたことを覚えている。ベトナムでの体験のあと、沖縄の記憶を思い出す兵士は、どれほどいただろうか。楽しかったことは確かに覚えている、でも詳細な記憶が抜け落ちているんだ、とその退役軍人は言っていた。長調が続けばいいのに…またそう思ってるうちに、曲は短調に変調してしまった。シューマンがピアノ伴奏をつけたシャコンヌは、長調部分の最後のフレーズで、短調に転調してしまう。まるでその後訪れる短調をあらかじめ予見するかのように。一方でメンデルスゾーンの版は、長調が長調のままで終わる。長調の余韻を残したまま、短調のシャコンヌが再開される。たとえそれから最後まで短調のままで音楽が終わることになっても、常に、わずかに、長調の記憶が残っている。つい、ふたりの人生とその音楽性の違いを重ね合わせてしまって、その考えを振り払うようにビールを飲み干した。

シューマンのピアノ伴奏と、メンデルスゾーンによる、長調のままで終わる、長調部分最後のフレーズ。その組み合わせならぴったりなのに。そんな風に考えていた。

多くの若い精神のなかには、自分では土台の石ひとつ運ばなかった高所にたっているくせに、その恩を忘れて、さらに新たな境地を開くことを省みないものも多いが、これは近来のあらゆる世代のおかしている狭量の仕業だ。

しかもどうやら、今後も当分この様子が続きそうに思われる。僕もその若者の一人にちがいないが、この点ではたとえ相手が最愛のフロレスタンであろうとも、甘んじて手を握りあう気になれない。

フロレスタン−もし、君がどこかの大王だったとして、たまたま一戦を失ったために、臣下の者どもから紫の衣を剥ぎとられるような目にあったら、憤慨して、恩知らずども!と言わないだろうか。−

オイゼビウス

これはオイゼビウスらしい、いかにもお美しいお心掛けだが、笑止千万、片腹痛い。いかに君たちが躍起となって君たちの時計の針を戻そうとも、これから先も相変わらず太陽はのぼるのだ。

いかにも、僕は、あらゆる現象にそれぞれの処を得せしめるという、君の心がまえを高く買ってはいるが、結局君は偽装ロマン主義者だと睨んでいるんだ−そのほかの名は御遠慮申そう。下らぬ名前をつけても、いずれ時が洗い落すだろうから。

フロレスタン

シューマン著(吉田秀和訳)『音楽と音楽家』

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2014年11月。翌年のグループ展に出展する予定の作品制作のため沖縄に滞在することになった。初日に宿泊するホテルは決めていた。北中城にある、かつてのヒルトン・オキナワ。北中城に着いた頃には、すっかり日は暮れていた。

その2ヶ月ほど前の9月。ESさんに連れられて荻窪の名曲喫茶に行くと、ずいぶん明るい店内に拍子抜けした。窓が開け放たれている。一週間前にお店を閉じたのだと良い、ESさんが聴いたという沖縄人ピアニストによる「雨だれ」のレコードも含め全部売り払ったのだと知らされた。
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北中城のバス停で降りたのは僕ひとりで、目の前は米軍基地だった。申し訳なさそうに設置された高速道路のバス停から、細い階段がフェンスに沿うように続いている。高速の下の真っ暗なトンネルをくぐり抜けると、反対側は山沿いの小さな集落となっていた。山の上を見上げると、ライトアップされたホテル。なだらかに見えた山の山頂へは獣道のような曲がりくねった小径を進むことになり、11月だというのに汗だくになってしまった。ホテルにたどり着き、チェックインをすませて部屋で一息つく。ヒルトンやその後このホテルを買収した企業が撤退した後は長らく廃墟だったらしい建物は、数年前に地元の企業が買収し、新たなホテルとして開業していた。造りはヒルトン当時から大きく変わっていないように思えた。

汗がひいて、地下にあるバーへと向かう。山の頂上に建っているため、地下と言っても窓の外は開けた風景が広がっていた。エレベーターを降り、団体客で賑わうロビーを左に進むと、ピアノの音が聞こえた。僕でも知っているジャズのスタンダードナンバー。角を曲がると、目の前に巨大な窓があり、その向こうに綺麗な夜景が広がっている。円を描くようにバーへと降りる階段を下り、窓側の席に座ってビールを頼んだ。なんの曲だっただろうか。そう思っているうちに曲が終わり、まばらな拍手。ピアノを弾いていた初老の男性が椅子に座ったまま軽く頭を下げた。
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窓の外の夜景を見下ろす。方角的に、眼下に広がる夜の滑走路みたいな均一な光の列は、米軍の居住区だろうか。ヒルトン時代にここに泊まっていたアメリカ人たちは、その光を見ながら酒を飲んでいたのかと思うと不思議な気分になった。アメリカのホテル、アメリカの地区。その隙間の暗闇が、沖縄。ピアニストが、次の曲を弾き始める。ブラームスの間奏曲Op.118-2だった。大きな窓の外の夜景を見ながら、似たような場所でこの音楽を聴いたことが以前にもあったように思え記憶を辿るけれど、どうしても思い出せない。

曲が終わり二杯目のビールが届けられた頃に思い出した。自分の体験などではなく、ダグラス・サークの映画『天はすべて許し給う』だ。ロック・ハドソンが自ら改築した山小屋風の自宅に招かれたジェーン・ワイマン(庭師のハドソンと中流階級の未亡人ワイマンの恋は、身分不相応と町のひとびとの噂になっている)。彼女は、「なんて大きな窓!」と外の景色を見ながら言う。そこで流れるメロディーは、ブラームスの交響曲一番・第四楽章のホルンの主題をアレンジしたもの。少し酔っ払い、手持ち無沙汰になってウィキペディアのブラームス交響曲一番のページを流し見ていると、ブラームスがクララ・シューマンに宛てた手紙のなかで、この主題に、「高い山から、深い谷から、君に何千回も挨拶しよう」という歌詞を付けて送っていたということを知った。ずいぶんロマンチックだと思いながら目前の風景に改めて目を向け、自分は今高い山の上にいるのだな、と妙な気持ちになった。今ここから「挨拶」しても、沖縄を通り過ぎてその向こうのアメリカに届くのだろう。

沖縄にあったふたつのホテル、沖縄ヒルトンと亡霊ホテル(といつの間にかにESさんが呼び始めていた)の話をしていて、旧帝国ホテルでの両親の出会いをフィクショナルに再構築したサイモン・フジワラの「Aphrodisiac Foundations」の話になる。ふたりとも、Taro Nasuでの展示をオープニングの日に見ていた。気づかなかった、バーで隣り合ってたりしなかったのかな。そんな風に話して、帝国ホテルを見に行こうと日が落ちた新橋の街を内幸町方面に歩き、日比谷に向かう。日比谷にはほとんど来たことがないと僕が言うと、ESさんによる即興的な夜のツアーが始まった。奇妙にトロピカルに感じる日比谷公園に入り、しばらく歩いていると、帝国ホテルが目に入る。縦に伸びる直線的なホテル、そしてそれを囲むビル群。ここにフランク・ロイド・ライトの旧帝国ホテルが建っていたことを想像することができなくて、『Aphrodisiac Foundations』の物語をうまく投影できない。イギリス人の女性ダンサーが辿るルート、日本人の建築家が辿るルートはどんなだったか。たしか、ふたりの足取りが交わる場所はバーだっただろうか。思い出せない。そして、その作品が『二十四時間の情事』を連想させることに今更ながら気づく。原爆投下後の広島についての長いオープニングシークエンスのあと、新広島ホテルのベッドの上で、フランス人女優と日本人建築家が笑い、語り合う。ふたりはじゃれあい、女はコーヒーを手にバルコニーに出て、青空が広がる広島の街を望む。浴衣を着ている。男はまどろんでいる。ふたりはシャワーを浴び、女は撮影用の衣装に着替える。看護婦姿だ。男はシャツを着て腕時計をつける。一緒に、部屋を出て、ホテルから広島の街に出る。

公園を出て帝国ホテルを左手に進むと、東京宝塚劇場。ここも建て替えられてしまったけど、旧劇場は終戦後に接収されアーニー・パイル劇場と改名され、主に駐留軍関係者向けの公演を行っていた。日本人が客として足を踏み入れることは許されなかったが、演者として多くの日本人ミュージシャンやダンサーたちがここで演じた。この劇場で戦後、日本に兵士として派遣されていたホルヘ・ボレットがオペレッタ『ミカド』を指揮していた。ボレットはピアニストとして同劇場の小ホールで演奏もしており、後年アメリカで高く評価された。でもそれは、ずっとあとの話。劇場名となった従軍ジャーナリスト、アーニー・パイルは1945年4月、沖縄の伊江島で死亡した。帝国劇場。そこは接収されることはなく、日本人向けの演目が多く催された。1946年に、ここで戦時中欧州にいた女性ヴァイオリニストが日本人観客に向けてバッハの無伴奏バイオリン曲を演奏した。誰だっただろうか?ゲッペルスからストラティヴァリウスを贈られたという…。

皇居前広場。言葉を交わすでもなく、ふたりとも広くなった夜空を見上げながら歩く。僕は過去にここで騒動を起こした沖縄人活動家たちについて考える。たしか、71年に皇居突入を企てた活動家グループがいた。その1年前、「朝鮮人と二十才以下の者は降ろす!」と叫び、アメリカ人宣教師に刃物をつきつけ東京タワーを占拠した富村順一もここで街宣活動をしていたらしい。そういえば、『ミカド』が上映されたアーニー・パイル劇場は、こんなにも皇居から近かったのか、と少し不思議な気分になる。どんなオペレッタなのだろう。しばらく歩くと、東京国立近代美術館。とっくに閉館時間を過ぎている。今やっている企画展は…ヤゲオ財団コレクション展か…久しぶりに所蔵作品展を見たいな…そんな話をしながら、竹橋の駅でESさんと別れた。

自宅に戻り、『ミカド』の映像をYouTubeで探す。派手な乱痴気騒ぎ。初演は1885年、ジャポニズムの時代。『ミカド』は、今でも時々上演されるポピュラーな演目らしい。

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丸いお皿の対極に置かれた、二本のフォーク。チョコレートの黒とラズベリーの赤がいくつも、二本のフォークそれぞれの方向に跡を引いている。アンブロワジーは、あっという間になくなってしまった。雨だれといえば、とESさんが思い出したように言う。沖縄出身だよね?そうです、と答えると、ある沖縄出身の不思議なピアニストについて、ESさんは話しはじめた。

荻窪に住んでいるんだけど、このあいだ近所の古い名曲喫茶に入ると、不思議なショパンの演奏が流れていて(ミニオンでしょうか?いや、もっとこじんまりしたところ)。店主に聞いてみると、古ぼけたレコードを持ってきてくれた。ピアニストは沖縄人らしく、数年前に近所に住む沖縄出身者から寄贈されたもので、店主もそのピアニストについて詳しくは知らない。荻窪近辺、沖縄の文化人が多く住んでいたから、少部数で製作されたものを持っていたのかも知れない(たしか伊波普猷とかも住んでいたはず、と僕は思い出す)。カバーには、鍵盤に向かうピアニストを横から捉えたモノクロームの写真。ありきたり、といえばそれまでだった。裏返すと、大きな窓のあるバー、ピアニストと軍服を着たアメリカ人が窓際のテーブルに並んで座ってカメラのほうを見ている。窓の外はまだ明るい。アメリカ人の手元には、バイオリン。ピアニストは楽譜を手に持っている。小柄で彫りの深い顔をしたピアニストと、小さなテーブルを挟んだ向かい側にいるアメリカ人。緩やかに開いた脚がテーブルカバーからスラリと突き出していて、刈り込まれた髪の毛の色は明るい。窓の向こうは雨のようで、もしかしたら嵐だったのかもしれない。窓を斜めに走る雨の線が見える。その不思議な写真を眺めていたら、前奏曲は第15番「雨だれ」に変わる。カバー裏面、写真の下部にはペンで小さく「At the Hilton Okinawa」と書かれていた。占領下の沖縄にヒルトンがあることが、すごく理不尽なことに思えて、その写真は強く印象に残っている。「雨だれ」とともに。

ESさんの話を聞いて僕は、沖縄にヒルトンが存在していたことを初めて知った。iPhoneで検索をする。綺麗なふたつの弧が交わるようなホテル、丘の上。海を見渡す白亜のホテル。基地の外に建設されていたものの、宿泊客の大半はアメリカ人だったようだ。しかし、それ以上詳しい情報はでてこない。返還後数年経って廃業し、長く廃墟になっていたものが、最近別のホテルとなって再開したようだが、それ以上の情報はない。北中城…そうだ。兄が免許取り立てだった頃、兄と兄の友人と僕の三人で、北中城の丘の上に建つ廃墟ホテルへ肝試しに行ったことを思い出した。僕はまだ高校生だった。あれは、ヒルトンだったのだろうか?暗闇のなか、ぼんやりと灰色に浮かび上がるコンクリートのホテルの姿を記憶の中に探る。いや、あのホテルは灰色だった。そうだとしたら、北中城の丘にはふたつ以上もホテルの廃墟があったのだろうか。兄がライトを消し、三人でしばらく様子を伺う。エンジンを切ると、完全な静寂。たしかこの山の向こう側には、中城城跡がある。沖縄戦が始まって比較的早くに米軍に占拠された土地。きっとそこからは、沖縄の平野が広く見渡せたのだろう。そんなことを思いながら僕は、二人の肩が緩やかに上下するさまを見つめている。突然後ろから強い光が差し込み、僕たち三人は同時に鋭い声をあげて肩を震わせる。白いトヨタが僕たちの車の横を走り、ホテルのエントランスのすぐ側につける。ナンバープレートは、Yから始まっていた。車からは数人の男たちが飛び出し、笑い声をあげながらホテルの中に入っていった。興ざめしたのか兄はエンジンを入れて、帰ろう、と言った。この島にはもう幽霊なんていないね、と。

会計をお願いします、とのESさんの声に引き戻される。ピアニストの名前は?僕は聞いてみた。それが忘れてしまって、とESさんが笑った。今度一緒に行こう。「雨だれ」を聴きに。

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聞いて、聞いて
私よ、オンディーヌよ
やさしい月の光がさす窓を
月光に輝く飾り硝子を
夜露のようにそっとたたくのは私
アロイジウス・ベルトラン(庄野健訳)『夜のガスパール 抄』(青空文庫、リンク)

2014年の晩夏、午後。知人の結婚パーティーからの帰り道、ひとりで銀座を歩いていた。ぶらりと人気のない方へと歩き、なんとなく目の前にスーツ姿の男を認めながら、追うでもなく同じ方向にあてどなく足を運ぶ。京橋の交差点で赤信号に引っかかる。立ち止まった男が横を向き、首元に手をやり、細い首から紺色のネクタイを外す。見覚えのある、特徴的な喉仏が目に入る。その横顔から目を離せず、男の少し後ろで止まる。男はスマートフォンで何かを確認して、しまう。信号が青に変わると、彼はしっかりとした目的を持ったように歩を早めた。手に持ったネクタイが揺れている。僕は後を追い、ひとつ目の角を曲がったところで声をかけた。その目が迷惑そうに少し細まり、そして見開く。エスさんだった。結婚式か何かですか?聞くと彼は笑ってそれを認め、お互いそんな年になったねと笑った。気疲れしたから甘いものを食べに行くのだと言う。一緒にそこでコーヒーでも飲まないか?店に入ると彼は勝手知ったようにショーケースの左端にひとつだけ残っていた、黒曜石のように輝くチョコレートのケーキをオーダーし、店員に導かれてテーブルへと進む。隣では、ビジネススーツの男ふたりがケーキとコーヒーを間に愚痴を言い合っている。日曜なのに。コーヒーを頼んだあと、フロイトはあれから幾つか読んだのですと言うと彼は、はて、という顔をした。とたんに記憶が濁る。あれ、エスって…フロイトのエスですよね、昔の、その…ハンドルネーム。ぼくは隣の二人組を意識しながら、少し小声で言う(ハンドルネームは、ミスチルからですか?と初めてのメールで聞いてしまった記憶をひもときながら)。いや、ただのイニシャルだったんだけど…E、S。と彼は答えた。その目には、からかいの色も嘘も見えない。

たち騒ぐ波は水の精
すべての流れは私の王宮への径みち
私の王宮は
火と土と風のはざま
湖底にかくされた秘密
(同上)

僕は、十年以上前にウェブの掲示板で見つけた、彼の投稿を思い出そうとする。写真は、長袖のTシャツにストール。見下ろすように撮られていて、表情はよく見えない。好きな音楽:宇多田ヒカル、マドンナ、ジャネット、エリカ・バドゥ、レディオヘッド。レディオヘッドを除けば典型的だ。宇多田ヒカルは「Final Distance」よりも「DISTANCE」が好きだと二回目のメールで書いていて、大人だなと思った(僕は「Final Distance」のアレンジが好きな「子供」だった)。レディオヘッドは「Creep」しか聞かない、とも。出たばかりの『Amnesiac』も『KID A』も聴いていないという。わずかな失望。初めてのチャットで、ずいぶん長くフロイトの話をしなかったか。まったく精神分析に疎かった僕に、フロイトやラカンについて語っていなかったか。僕は、彼に『Amnesiac』や『KID A』を聴いてもらいたくてSNOOZER垂れ流しの論を展開しなかったか…そう思っていたものの、聞きただすきっかけを得られずにいた。エスさん…ESさんは、いまは都内の美術館で働いていると言う。僕は美術家として活動していると伝えた。こんなにも近い世界で働いていたなんて、と僕たちは驚く。そういえばあの時も、ロモのLC-Aをずっと手にしてたねと彼がいい、僕は恥ずかしくなる。あの頃、ウェブで知り合った男の子たちは、みんなLC-Aで写真を撮っていた。僕もそれに触発されて写真を撮りはじめていたけど、ESさんはLC-Aは持っていなかった。その頃から、サイバーショットを使っていたはずだ。

聞いて、聞いて
私の父は榛はんの若木の枝で水を従えるのよ
姉さまたちは白い波で
水蓮やグラジオラスが咲きみだれる
緑の小島をやさしく包み
釣人のように枝を垂れた
柳じいさんをからかっているわ
(同上)

最近はどんな音楽を?と僕は聞く。ESさんと知り合う前はジャネットにもマドンナにも興味はなかった。「Creep」が好きだというレディオヘッドファンは馬鹿にしていた。最近はクラシックばかり、とESさんが答えた。フランス近代の、例えばモーリス・ラヴェル。ざっと頭の中にラヴェルの作品名を並べ、『ラ・ヴァルス』が好きだと僕は言った。第一次世界大戦後、母親の死後に彼が作った曲。ESさんは『ダフニスとクロエ』、それ以上に『夜のガスパール』が好きだと言った。第一次大戦前、1909年の作品だ。僕は、あの曲は抽象的すぎてよく分からないと正直に言った。ベルトランの詩は読んでみるといい、彼の死後出版された唯一の詩集だ。そう、そんな風にESさんは19歳の僕にフロイトの『不気味なもの』を薦めなかったか。発表当初は20部ほどしか売れなかったというベルトラン『夜のガスパール』をラヴェルは70年近く後になって「発見」し、三つの詩からピアノ曲を作った。一曲目は「オンディーヌ」。水の精の詩。オンディーヌは男に恋をし、みずから指輪を差し出して求婚する。私の夫になって、湖の国の王になって、と。でも、男は断る。人間の恋人がいるのだ、と。

オンディーヌは
恨みがましく涙を流したかと思うと
嘲笑を私に浴びせかけた
そして水のなかへと
帰っていった
オンディーヌのたてたしぶきが
青硝子に白い跡を残した
(同上)

オンディーヌと男との交流は、すべて窓越しに行われている。室内には、男の恋人がいたのかもしれない。最後オンディーヌは、雨粒のように窓を濡らし、湖へと戻ってゆく。誰の演奏で聴くといいですかねと聞くと、ポゴレリチ、と返された。苦手なピアニストだ…と僕は思いながら、ポゴレリチはブラームスの間奏曲集とショパンの前奏曲集しか聴いたことがないと告白した。彼のショパンは良いと思うよ。「雨だれ」もジョルジュ・サンドとの旅の間に遭遇した雨に触発されて作った曲だね。オーダーしたケーキがテーブルに置かれ、僕たちは会話を中断してその美しいケーキに全意識を注いだ。花びらを形作った極限に薄いチョコレートに包まれた漆黒の、濡れたチョコレートケーキ。金箔が中央に輝いている。このお菓子の名前はアンブロワジー。神の食べ物という意味だ、とESさんが恭しく言いフォークをするりと突き刺した。ずっと、神の食べ物は赤いものだと思っていた。





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