沖縄にあったふたつのホテル、沖縄ヒルトンと亡霊ホテル(といつの間にかにESさんが呼び始めていた)の話をしていて、旧帝国ホテルでの両親の出会いをフィクショナルに再構築したサイモン・フジワラの「Aphrodisiac Foundations」の話になる。ふたりとも、Taro Nasuでの展示をオープニングの日に見ていた。気づかなかった、バーで隣り合ってたりしなかったのかな。そんな風に話して、帝国ホテルを見に行こうと日が落ちた新橋の街を内幸町方面に歩き、日比谷に向かう。日比谷にはほとんど来たことがないと僕が言うと、ESさんによる即興的な夜のツアーが始まった。奇妙にトロピカルに感じる日比谷公園に入り、しばらく歩いていると、帝国ホテルが目に入る。縦に伸びる直線的なホテル、そしてそれを囲むビル群。ここにフランク・ロイド・ライトの旧帝国ホテルが建っていたことを想像することができなくて、『Aphrodisiac Foundations』の物語をうまく投影できない。イギリス人の女性ダンサーが辿るルート、日本人の建築家が辿るルートはどんなだったか。たしか、ふたりの足取りが交わる場所はバーだっただろうか。思い出せない。そして、その作品が『二十四時間の情事』を連想させることに今更ながら気づく。原爆投下後の広島についての長いオープニングシークエンスのあと、新広島ホテルのベッドの上で、フランス人女優と日本人建築家が笑い、語り合う。ふたりはじゃれあい、女はコーヒーを手にバルコニーに出て、青空が広がる広島の街を望む。浴衣を着ている。男はまどろんでいる。ふたりはシャワーを浴び、女は撮影用の衣装に着替える。看護婦姿だ。男はシャツを着て腕時計をつける。一緒に、部屋を出て、ホテルから広島の街に出る。

公園を出て帝国ホテルを左手に進むと、東京宝塚劇場。ここも建て替えられてしまったけど、旧劇場は終戦後に接収されアーニー・パイル劇場と改名され、主に駐留軍関係者向けの公演を行っていた。日本人が客として足を踏み入れることは許されなかったが、演者として多くの日本人ミュージシャンやダンサーたちがここで演じた。この劇場で戦後、日本に兵士として派遣されていたホルヘ・ボレットがオペレッタ『ミカド』を指揮していた。ボレットはピアニストとして同劇場の小ホールで演奏もしており、後年アメリカで高く評価された。でもそれは、ずっとあとの話。劇場名となった従軍ジャーナリスト、アーニー・パイルは1945年4月、沖縄の伊江島で死亡した。帝国劇場。そこは接収されることはなく、日本人向けの演目が多く催された。1946年に、ここで戦時中欧州にいた女性ヴァイオリニストが日本人観客に向けてバッハの無伴奏バイオリン曲を演奏した。誰だっただろうか?ゲッペルスからストラティヴァリウスを贈られたという…。

皇居前広場。言葉を交わすでもなく、ふたりとも広くなった夜空を見上げながら歩く。僕は過去にここで騒動を起こした沖縄人活動家たちについて考える。たしか、71年に皇居突入を企てた活動家グループがいた。その1年前、「朝鮮人と二十才以下の者は降ろす!」と叫び、アメリカ人宣教師に刃物をつきつけ東京タワーを占拠した富村順一もここで街宣活動をしていたらしい。そういえば、『ミカド』が上映されたアーニー・パイル劇場は、こんなにも皇居から近かったのか、と少し不思議な気分になる。どんなオペレッタなのだろう。しばらく歩くと、東京国立近代美術館。とっくに閉館時間を過ぎている。今やっている企画展は…ヤゲオ財団コレクション展か…久しぶりに所蔵作品展を見たいな…そんな話をしながら、竹橋の駅でESさんと別れた。

自宅に戻り、『ミカド』の映像をYouTubeで探す。派手な乱痴気騒ぎ。初演は1885年、ジャポニズムの時代。『ミカド』は、今でも時々上演されるポピュラーな演目らしい。




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