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旧ヒルトンホテル。バーで飲み足りず、部屋で缶のオリオンビールを開け、外の風景を眺めながら飲んでいた。パソコンを開いてiTunesで音楽を流す。バッハの「シャコンヌ」にシューマンがピアノ伴奏をつけたもの。ダニエル・セペックのヴァイオリンと、アンドレアス・シュタイアーのピアノ。バッハのヴァイオリンだけの演奏よりも、この録音ばかりを最近は聞いていた。その他にも、メンデルスゾーンやレッセルがピアノ伴奏をつけたものやブゾーニやブラームスによるピアノ版も聞いてみたけれど、シューマンのものが一番しっくりきた。

メンデルスゾーンによって「再発見」されたバッハの音楽。ロマン派の音楽家たちはその音楽を再解釈しようと試みた。特に、ヴァイオリンだけで演奏されるシャコンヌはさまざまな解釈がなされていた。彼らは自分たちなりのシャコンヌを鳴らそうとしたのかもしれない。僕は、ロマン派の作曲家の中でも、シューマンの二面性に強く惹かれていた。たとえば、批評家としても活動していた彼がテキストの中で作り上げた、オイゼビウスとフロレスタンというシューマン自身の二つの面を代弁していたというふたり。彼らを含む「ダヴィッド同盟」という奇妙なグループ、彼らの対話を通して批評は展開される。まるで物語のように。同じように、彼の音楽には物語があるように感じていた(たとえば、『ダヴィッド同盟舞曲集』や『子供の情景』)。そして、対話のようにピアノとヴァイオリンが対等に鳴り響く彼のシャコンヌは、最もロマン派的な音楽に聞こえた。

パソコンから流れてた短調のシャコンヌが、長調に変わる。

目の前に広がる、綺麗な夜景を眺めながら、このまま長調が続いたらいいのに、と思っていた(ベートーヴェンの音楽のように)。それでも、すぐに長調は短調に戻る。1970年代にこの旧ヒルトンホテルで一時を過ごしたアメリカ兵たち、その後ベトナムに行ったであろう彼らの多くは、どうなってしまったんだろう。沖縄での一時期が、幸せな、ひとときの息抜きとなった、いつかアメリカで老いた退役軍人から聞いたそんな言葉が思い出された。その時の沖縄側の状況も知識としてあったから、その言葉に妙な居心地の悪さを感じていたことを覚えている。ベトナムでの体験のあと、沖縄の記憶を思い出す兵士は、どれほどいただろうか。楽しかったことは確かに覚えている、でも詳細な記憶が抜け落ちているんだ、とその退役軍人は言っていた。長調が続けばいいのに…またそう思ってるうちに、曲は短調に変調してしまった。シューマンがピアノ伴奏をつけたシャコンヌは、長調部分の最後のフレーズで、短調に転調してしまう。まるでその後訪れる短調をあらかじめ予見するかのように。一方でメンデルスゾーンの版は、長調が長調のままで終わる。長調の余韻を残したまま、短調のシャコンヌが再開される。たとえそれから最後まで短調のままで音楽が終わることになっても、常に、わずかに、長調の記憶が残っている。つい、ふたりの人生とその音楽性の違いを重ね合わせてしまって、その考えを振り払うようにビールを飲み干した。

シューマンのピアノ伴奏と、メンデルスゾーンによる、長調のままで終わる、長調部分最後のフレーズ。その組み合わせならぴったりなのに。そんな風に考えていた。




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