子供の頃、僕の生まれた島は戦争の影響を受けなかったと聞かされていたけど、実際には空襲も受けていて、そして残留日本兵がずいぶん酷いことをしたようだけど、家族や親戚、教師たちからそのようなことを知らされた記憶は僕にはない。身近なひとたちの深い傷跡が癒えるようにと過去を隠してきたのかもしれない。そんな風に戦争が見えなくなった場所で、アメリカに憧れていたこと。戦争や基地というものへの距離感。なんだか、もっともなことに思えた。
半分おとぎ話として認識していた、浜辺に漂流した兵士たちも確かに存在したようだった。沖縄戦が終わる少し前に、沖縄本島から漂流してきた日本人の逃走兵たち。そのうち数名は、すでに島にいた日本軍に殺されたらしい。おとぎ話では兵士たちは生き抜いていたような気がしてならないけど。両親や島の人間に聞けるはずもないし、この先もおそらく聞くことはない。僕は少しの本を手がかりに、このぼんやりとした逃走兵たちの存在について知りはじめている。
私はいつの間にか意識が朦朧としてきた。ギラギラ光っていた夜光虫の群れがやがて大きくふくれあがったかと思うと、間もなく髑髏の群れとなって舟のまわりをとり巻いた。髑髏たちは口々に「お前は俺たちを見捨てて逃げて行くのか」と罵った。
渡辺憲央『逃げる兵』(文芸社、2000年)
逃走兵たちは、夜の嵐を抜け、島の浜辺に打ち上げられた。数日後にその浜辺にアメリカ軍が上陸し、米軍の活動拠点がつくられた。逃走兵のうち何人かはその浜辺に戻って自らの意思で捕虜となり、何人かは米兵や日本兵に銃殺された。そしてその浜辺は、Yの家のそば、僕たちがいつかブルーシールを食べた場所だった。Yはその歴史について知っていたのだろうか。
その浜辺に、成人式のあとの夜みんなでビール片手に連れ立っていったことを覚えている。みんなと会うのはとても久しぶりだった。夜の砂浜は信じられないくらい真っ暗で、波の音だけが大きかった。誰かが砂浜のまんなかで焚火を始めていたけど、みんな疲れたのか散り散りになって、あてもなく歩き回ったり、空を見上げたり、仰向けにねころんだりしていた。僕は少し寂しげな火から離れて、水辺で砂をいじっていた。手を柔らかい砂にもぐらせると青白くわずかに発光するなにかが出てきて、手のひらに載せると、ぼう、っとすこし強い光を発した。暗くてよく見えないけど、生きている。僕は驚いて近くに立っていた誰かに、海ボタルだ、と手のひらを差し出した。Yだった。彼は夜釣り用の浮き輪だろうとなぜか気の無い返事をしてビールをあおっただけだった。オレンジ色の炎を背後に青白く浮かび上がる沖縄の人間らしくないさらりとした横顔に僕は一時期たしかに夢中だったけれど、彼と会ったのもそれが最後だった。誰かがMDプレイヤーと携帯用スピーカーで昔のしめっぽい音楽を流しはじめた。センチメンタルだね、とYが笑うと「マレーネ・ディートリヒだ」と誰かが答えた。僕は冷たい水に手を突っ込んで光る何かを海にかえした。



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