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2016年6月初旬、キリシタン弾圧時代の史跡をたどるために、長崎に向かった。一日目は長崎空港そばに位置する大村に点在する史跡の幾つかを回った。大村は、日本初のキリシタン大名であり長崎港を開いた大村純忠が治めていた土地。空港からバスで橋を渡ってすぐの場所に、天正遣欧少年使節の像があった。そこから歩いて、百人以上のキリシタンや宣教師が処刑された放虎原殉教地とその首が並べられたという獄門所跡、そしてタクシーに乗り、鈴田牢跡を訪ねた。12畳ほどの狭さで35名もの宣教師や信者を閉じ込められていたという。それらを回ったところでその日は時間切れとなり、電車で長崎市へ向かった。他にも首塚、胴塚、妻子別れの石なども見たかったものの、車がないと回りづらい場所も多く断念した。史跡の名前はおどろおどろしいものが多いけれど、回った場所はどれも住宅地や畑に囲まれており、ちぐはぐで、のどかささえ感じられた。

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二日目は電車とバスを乗り継いで、島原半島の日野江城跡、原城跡などを回った。日野江城は、キリシタン大名であり城下に当時国内セミナリヨ(小神学校、天正遣欧少年使節もここで学んだ)を築いた有馬晴信の居城。知ってはいたけれど、草に覆われた日野江城跡の頂上に建てられた鳥居を見た時は、少し怖くなった。もっとも、有馬氏は領内にあった寺社を破壊していたのだけれど。

原城は、島原・天草一揆の舞台となった場所だ。たくさんの百姓やキリシタンが、ここで死んだ。破壊された石垣の資材が所々に積み上げられ、草木に覆われた跡地から当時の面影を想像することは困難だった。海に突き出した自然の要塞とも言える原城の跡地を、波打ち際から見上げるように撮影していると、鳶がどこからか飛んできて、原城跡の上空を旋回し始めた。『ジャカ・ドフニ』のチカップのことを思い出しながら、鳶は海を渡らないのだと気づいて頭をふる。

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原城を見た後、歩いて丘の方を上がり、有馬キリシタン遺産記念館に向かう。天草四郎というカリスマ性のあるリーダーを要していたものの、キリシタン以外の貧しい農民たちもいた一揆軍が、必ずしも一枚岩ではなかったことを知る。幕府軍と内通していた山田右衛門作は、妻と子を一揆軍によって殺されている。彼は、数少ない生き残りとなる。絵師だった。生き延びた後は江戸で暮らしていたというが、キリシタンに立ち返ったとも言われているようだ。まるで、遠藤周作『沈黙』のキチジローのようだ。そんな風に思った。そして彼はポルトガル人に絵を学んだ、画家だった。西洋画家。

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そう思い当たった時、原城の前に訪ねた日野江城跡から麓の大通りに戻る途中、「有馬のセミナリヨ跡」を見つけたことを思い出した。跡、と言っても建物の痕跡を残すものは何もない。ただ、民家脇の小さなスペースに、そう書かれた碑があるだけ。ここで、西洋美術や音楽を学んだ少年たちがいた。彼らが生きていたら、日本の美術史も変わっていたのかもしれない。しかし、それらのものは、セミナリヨと共に破壊されつくしてしまった。

それが我が国の美術にどのような影響を与えたかはそれらが徹底的な迫害のためにほとんど消滅してしまったのでにわかには言いがたい。しかし、日本における西洋音楽と西洋絵画の種子はこのとき確実に苗床に播かれたのである。その若木は迫害という厳冬を生きのびることはできなかった。しかしそれがわれわれの文化の基層、あるいはわれわれの感性の底に残したものがなんであったか…(後略)
若桑みどり『クアトロ・ラガッツィ 上:天正少年使節と世界帝国』(集英社、2008年)

 

星野博美『みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記』において、少年使節や当時の宣教師たちの足跡を辿るために長崎に出向いた著者は、あることに気づく。弾圧や虐殺が執り行われた場所はあまり目立たず、見つけづらい、と。21世紀に入って長崎市内で発見された17世紀のサント・ドミンゴ教会遺跡は「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」のリストには入っていない。その遺跡を訪ねた著者は、こう感じる。

それにしてもここでは、たった四〇〇年前にもかかわらず、まるで二〇〇〇年前のローマの遺跡でも見ているような印象を受けるのが不思議だった。ある特定の人たちが死にたえた、という滅亡感が漂っているのだ。
星野博美『みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記』(文藝春秋、2015年)

リストに含まれる教会群は18世紀の「信徒発見」以降に作られたものばかり。日野江城跡、原城跡は含まれるが、十分に保存・整備されているとは言えない。ある特定の人々が弾圧され、そして虐殺された歴史が十分に顧みられないままに消えようとしている。(2016年初頭に長崎教会群の世界遺産推薦取り下げが政府によって決定されている。それを受け、日野江城跡はリストから除外されることが決まった。)

島原にある二つの城に行くためにバスに乗った著者はまた、車窓から見た風景に感じた違和感についても言及している。海沿いの土地であるのにもかかわらず、人々が海から背を向けて暮らしているように見える、と。その理由について考え、気づく。ここにかつていた人々は島原の乱で死に絶えてしまい、他の土地から移住してきた人々の子孫が住んでいる。そして、島原の乱以降の支配者たちは、移住者たちの目を海ではなく陸へと向けさせるように仕向けた。海の向こうにある天草と、島原の乱が起きた原城があったこの地が再び結びつくことのないように。400年という年を経てもなお、その痕跡が見え隠れする。そして、原城跡周辺に点在する「原城跡を世界遺産に!」と書かれた幟を見て、虚無感に襲われる。

いい加減、虚しくなる。他のキリスト教関連遺産群はさておき、原城は、為政者と民衆の一騎打ちの場である。この地の存在意義を訴えるためには、「お上」がキリシタンをなぶり殺したことを世界に向けてアピールしなければならない。現代の「お上」の末端である公務員に、その覚悟を期待できるのか。またこの地には、弾圧された側の末裔がいない。
同上

弾圧された側の人間がいないという指摘に僕は驚く。そして、先日訪ねた網走の、ジャッカ・ドフニの看板を思い出す。いなくなってしまった、ウィルタの人たちのこと。四万とも言われるキリシタン(その多くは自国民だった)を弾圧、拷問し死に至らしめた負の歴史にどう向き合っていくのか。そう考えた時に、400年という時間軸は記憶を完全に消し去るほどに長いものではない。

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先日訪ねたマニラで僕は、ロレンソ・ルイスの名を冠した教会を訪ねた。にぎやかな中華街に建つ教会の中は静かで、祭壇脇には少年姿のロレンソ像が建っている。彼は聖者として列聖し、フィリピンでは多くの人に知られる存在だという。中国人の父とフィリピン人の母の間に生まれたキリスト教徒のロレンソは、ある時殺人容疑をかけられ、逃れるように日本へと向かう船に忍び込んだ。その船にはまた、キリシタン弾圧厳しい日本に潜入しようとする宣教師も同乗していた。その船は琉球に漂着してしまい、その場で宣教師やロレンソは逮捕、2年の拘留の後長崎に送られそこで殉教している。ロレンソが琉球に流れ着いたという事実に驚き、ふと気になって歴史を改めて調べて見る。薩摩の琉球侵攻は1609年。ロレンソが琉球についたのは1630年台半ば。キリスト教弾圧の時代と、琉球が日本に組み込まれていく歴史は、重なっている。ルイスは琉球のどの浜辺で捕まり、どこに捉えられていたのか。その足跡ははっきりしない。読谷に彼の名を冠した教会があるので、そこに聞けば何かわかるかもしれないと考えるけれど、信者でもないので少し気が引けてしまう。そして、セクシャルマイノリティである自分が長くキリスト教に抱いていた猜疑心が、胸の奥底に小さく残っていてなかなか氷解しない。でも、信仰を一旦脇に置いて、周縁に追いやられそして迫害された人々がいるという事実に向き合うべきだと感じた。400年など、そんなに長い時間でもない。そしてその弾圧は、形を変えて今も起こる可能性があり、世界のどこかで起こっているのだろうから。

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津島佑子『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』を読んでから、日本におけるキリシタン弾圧の歴史に興味を持つようになった。関連書籍を探している時、タイトルに惹かれてまず手にしたのが星野博美『みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記』(文藝春秋、2014年)だった。天正遣欧少年使節や彼らが聞き、学び、そして奏でた音楽に興味を持った著者は、実際にリュートを学び始め、音楽を通して、そして実際に長崎やヨーロッパを歩き、四人の使節やかつて日本を訪れた宣教師たちが見た世界を想像しようとする。

少年使節の4人、伊東マンショ、中浦ジュリアン、千々石ミゲル、原マルティノは、キリスト教に比較的寛容だった織田信長の時代に長崎を出発し、長い船旅の後ヨーロッパに到着、各都市をめぐり、1585年にローマで教皇グレゴリウス13世に謁見。その後海路で日本に戻ったもののキリスト教をめぐる情勢は様変わりしており、豊臣秀吉によるバレテン追放令によってキリシタンへの弾圧は日に日に強くなっていた。秀吉の機嫌を損ねないように(弾圧がさらに強まらないように)細心の注意をもって行われた謁見で、4人の少年たちは幾つかの音楽を、持ち込んだ西洋楽器で演奏した。その音楽が、何だったか現在ははっきりとわかっていないらしい。ジョスカン・デ・プレの「千々の悲しみ」という説が有力らしいけれど、著者はそれに疑問を持っている。「千々の悲しみ」は神聖ローマ皇帝でありスペイン国王カルロス一世が愛した曲のため、現地では「皇帝の歌」と呼ばれていた。秀吉の前で、スペイン国王を讃える歌を演奏するはずがない、と。

その後もキリシタンへ弾圧はますます激しくなり、千々石ミゲルはキリスト教を棄教、伊東マンショと中浦ジュリアンはその後再びマカオに渡り、コレジオに進学。その後日本に戻ったふたりのうち、マンショは長崎で病死、ジュリアンは潜伏して布教を続けていたのもの捉えられ穴釣りの刑で殉教(同じ時に拷問を受け棄教した宣教師に、遠藤周作『沈黙』に登場するクリストヴァン・フェレイラもいた)。マンショとジュリアンに少し遅れてマカオに渡ったマルティノは、その地を終の住処とした。テキスト化された歴史として読むと、どうしても彼らがその選択に至るまでに抱いた感情や思い、そして何よりもその日常がこぼれ落ちてしまう。拷問の手法も残忍すぎて、想像を途中でやめてしまう。でも、4人が初めての海外で見た風景や聴いた音楽から受けた戸惑いや驚きは、ある程度想像ができるのではないか。4人はヨーロッパでどんな音楽を聴き、マンショとジュリアン、そしてマルティノはマカオで何を聴いたのか。ミゲルは時々、覚えた音楽を思い出したりしたんだろうか。もしそうだとしたら、どのように感じただろう。「千々の悲しみ」や後期ルネサンスの多声音楽をいろいろ聞きながら、そんなことを想像していた。

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2015年秋、『ロマン派の音楽』のためのインタビューと撮影をサンフランシスコで終えた僕は、数日ロサンゼルスに行くことにした。予定は特に立てておらず、直前になってLAの近くに日系アメリカ人の収容所跡地があったはずだと思いあたる。LAを案内してくれる予定の友人に聞くと、車で片道3、4時間ほど。近郊ではない…けれど、連れて行ってもらえることになった。LAを出て、少しずつ岩や砂の色が変わってゆく砂漠の中を車は走り続ける。

次第に周りを取り囲む山々が高くなり、ローン・パインという小さな町を抜けた先に平野が広がっていた。そこが、かつて収容所があったマンザナー国定史跡だった。

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資料館を兼ねたビジターセンター、復元されたバラックと見張り塔、ホイットニー山の麓に佇む慰霊塔(建立は1943年)、そして同じく復元された収容所フェンスのほかは、木々や茂みに覆われた広大な荒野が広がっていた。しかし、そこかしこにかつての暮らしの痕跡が見えた。コンクリートの土台、錆びて折れ曲がった釘、水の枯れた日本庭園跡地。ここに、一万人を超える人々が強制的に収容されていた。広大な平野とはいえ、フェンスに囲まれた敷地内だとかなりの密度になるはず…ちょうど自分が生まれた島の人口が一万人だったので、想像してみる。狭い。事実、環境は劣悪だったことをビジターセンターの資料で知る。仕切りのないトイレ、隙間風の入り込む住居、絶えず入り込んでくる砂塵。一世とそれ以降の世代の収容者の世代間の断絶や人間関係のトラブルもあったかもしれない。

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この場所を訪ねた理由のひとつに、アメリカが特定の自国民を差別・弾圧した負の歴史にどのように向き合っているのか見てみたい、ということがあった。見たところ愛国主義的な空気は薄く、過去の過ちに向き合っているように見える。ビジターセンターでは、かつて収容されていた日系人の方がガイドもしていた。耳を傾けるべきだったけれど僕は上の空だった。フェンスが復元されたものであるということが、僕の中でずっと引っかかっていた。でもその理由をうまく言語化できない。一度撤去されて、もう一度設置された。この場所の記憶を閉じ込めておくように?そうではないような気もする。

ひとびとが住んでいた場所から追放され、俗悪な環境への移動を強要する。日本におけるそのような歴史はなんだろうと考え、近代の多くのことがらを飛び越えて、僕はなぜかキリシタン弾圧のことを思い浮かべた。数百年前の日本で行われたその弾圧について、ほとんど何も知らない。

帰ったら色々と調べてみよう、と思いながらだだっ広い収容所跡地を歩いていると、傾いた太陽のを受けて光るものが地面に点在していた。目を凝らすとそれは、70年近くが経過した今も角が取れていない尖ったガラス片だった。水辺ではないのでそれは当たり前なのかもしれないけれど、錆びてしまった釘やコンクリートの塊よりも、透明なガラス片はかつての日系アメリカ人たちの暮らしを強く想起させた。ここには、暮らしがあったのだ。その記憶を忘れないように、と静かに輝くガラスが亡霊のように哀しく揺らめいているように思えた。そのうちにそれらのガラス片も、風に転がってフェンスの外に消えていくのかもしれない。

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二日目は違う場所で撮影した。ずっと、『オーシャン・ビュー・リゾート』のYのように、彼がHOPEを吸っていた。2月に会った時も吸っていただろうか?思い出せない。彼がベランダに出て、カーテンの向こうでタバコを吸いながら眼下の川を横切るタンカーを見つめる。そしてカーテンのこちら側に戻り、窓を開けたまま三番の歌詞を歌い始める。この日は、ほとんど歌入りのテイクばかりを撮っていた。撮影した部屋からは那覇軍港、フェンス、その向こうに自衛隊駐屯地が見える。ここでも、両側が見えている。外からの騒音で声がかき消そうになり、飛行機の音や救急車の音に遮られるように歌は中断され、彼がHOPEを吸い、映像は終わる。

「両側を見た」と歌うこと、それは諦めであるとも解釈できるし、結局『花の名前』と同じ循環に回収されることなのかもしれない。でも、「人生については 結局何も分からないまま」という言葉と中断された音楽は、これからも続いてゆくその先の人生を想像させた。とってつけたようにHOPEを吸う彼がカーテンのこちら側に存在していることが、沖縄における人と人との関係性の新たな糸口を、そしてある種の希望を僕にもたらしてくれた。

『花の名前』(2015)は、欧州神話の時代から現代沖縄まで繰り返されるいくつもの愛と暴力の物語、その循環にまつわる作品になった。最後のシーンとなるドラッグクイーンの撮影を北谷で終え、深夜、窓の外で静止する光の消えた観覧車を眺めていた。かつて軍用地だったところが返還されて、アメリカンビレッジとなった。観覧車は、その地区のシンボルだ。撮影を行ったホテルを挟んで反対側には、今も米軍施設が広がり、ホテルのベランダからはその両方の「アメリカ」が見える。ぼんやりと観覧車を見ていると、ジョニ・ミッチェルの「Both Sides Now」が脳裏に浮かぶ。「でも今となっては太陽を遮り/すべてのものに、雨が、雪が降り/たくさんの夢があった/でも、雲がそれらを遮ってしまった」という箇所が、フローラの物語と重なった。「月、六月、そして観覧車が巡る」…目の前の風景とシンクロする。

ドラッグクイーンが「クロリスに」を歌うシーンは美しかったけれど、ループ構造をもつ『花の名前』においてそれはフローラの物語に直結し、そのきらめきも負の循環に飲まれてしまう。この循環を抜け出せないだろうか。例えば沖縄の人間に、「Both Sides Now」を歌ってもらってはどうだろうか、と僕は思いつく。「自分は結局まだ何も知らない」と歌うそれは、僕にとって絶望といくばくかの希望が同居する曲だった。それまで沖縄の男性をきちんと映像に収めたことがなかったこともあり、沖縄人男性に歌ってもらうことにした。それによって僕と沖縄との関係がまた変化してゆくかもしれない。『花の名前』と同じように、歌い手の性別をオリジナルと変化させたかったという意図もあった。

撮影した映像のなかで「Both Sides Now」を演奏する男性は、2016年の2月に沖縄で開催した『オーシャン・ビュー・リゾート』・『ロマン派の音楽』上映会とその後のトークに参加したひとりだ。共通の知人が、演奏者候補としてどうかと連れてきてくれた。トークの最後に彼が『オーシャン・ビュー・リゾート』のレースカーテンについての質問をしたことを覚えている。「Y」が「僕」の言葉を遮ったように、カーテンもまた遮るものとして存在しているのか、というようなことを聞かれた。僕はそれがある種の境界であり、前半の沖縄人男性とアメリカ兵を隔てていたフェンスを模倣しながらも、まるで違う境界として立ち現れていると答えになっているかわからないような答えかたをした。一度しか見ていないはずなのに、彼は細かいカット割についての言及を交えて、境界にまつわるいくつかのことを聞いてきた。

撮影を引き受けてくれることになり何度か話している中で、撮影にはランプとレースカーテンが必要だと彼が言う。そのふたつは、『オーシャン・ビュー・リゾート』の重要な要素で、なぜランプにまで着目するのだろうと僕は少し驚く。あまり自分では言及することがない要素だった。American Boyfriendの世界に入り込んできた新たな登場人物のように、彼が存在しはじめていた。

初日の撮影では、ギターだけで「Both Sides Now」を弾いてほしいと頼む。スワンとオデットの物語に沿う形で、伴奏だけでメロディーが奏でられてもいいのかもしれない、と思っていたから。そして、もうひとり、歌い手の存在を浮かび上がらせることができるかもしれないから。歌もあったほうがいいのではと彼が言い、両方のバージョンを何回か撮ってその日の撮影は終わった。

15_I've Looked at Clouds from Both Sides Now
ウッディが紹介してくれた兵士は、連絡が途絶えがちではあったものの、撮影の約束をしてくれた。撮影予定の直前になって、また連絡がとれなくなってしまったけれど、どうにかなるかもしれないと願いながら沖縄に向かった。これから行きます、撮影大丈夫?と彼にもう一度メールを送る。滞在は、二泊三日。一日目は連絡もなく、ホテルでビールを飲んで過ごす。夜になっても連絡はない。やけっぱちになって、ホテルのレストランで一番高いコースを頼んで、瓶ビールを飲み続けた。デザートを待っていた夜8時、iPhoneが振動し見慣れない番号が並ぶ。水を飲んで頭をふって電話に出ると、「ハロー」と穏やかな声が聞こえた。明日は休みだから、何時でも大丈夫。車でいくよ。彼が言った。安心して、とたんに酔いがまわる。明日の15時にホテルで待ち会わせにして僕はありがとう、と電話を切った。

翌日、大荷物を抱えた彼が現れた。兵士というには華奢な体で、まだ少年の面影が残る。彼が化粧をする様子を撮影しながら、僕はインタビューをした。いつからドラッグを始めたのか(アメリカにいた時から)、所属はどこなのか(空軍)、沖縄の男性と知り合う機会はあるのか(那覇のバーにいったときに、ときどき)。でも、すぐに話題は尽きてしまう。僕は無言で、彼が化粧をする様を撮影し続けた。3時間が経ち、外はすっかり暗くなってゆく。窓の外に見える観覧車に光が灯った。綺麗だけれど、なんだか妙だと思っていたら、動いていない。どうやら修理中のようだ。

7時。化粧を終えた彼がピンクのウィッグをかぶり、ドレスを着る。後ろ締めてくれる?と言われて、ファスナーを上げる。彼が胸にパッドを入れる。そして、綺麗なパールのネックレスをとりだした。留め金、お願い。そう言われて、ネックレスを渡されたけど、ネックレスなんて初めて触るので戸惑ってしまう。留め金はどこ?結局僕は彼の両手を導くだけだった。

OK。そう言ってドラッグクイーンとなった彼女が振り返る。フランス語はわからないけど、頑張って覚えたから、多分大丈夫。僕は上の空だった。

彼女がリップシンクで「クロリスに」を演じ始めた。背後では止まった観覧車が輝き、僕はその光を背後に演じる彼女に見とれていた。3回だけ演じてもらい、直感で十分だとわかる。OK、もう大丈夫。僕は彼女にありがとう、と言った。こちらこそ。芸術のお手伝いができるなんて光栄だった、と言う。ドレスを脱ぎ、ふたたびいつもの格好になって、兵士は帰り支度を始めた。でも、化粧とウィッグはそのまま。このウィッグお気に入りなんだ、と言う。荷物、下まで一緒に運ぶよ、と僕は幾つかの荷物を抱えてホテルのエレベーターに乗った。内心、ホテルの人に見つかったらどうしようとドキドキしながら。駐車場で、ピンク色のウィッグの彼にもう一度ありがとう、と言った。グレーのTシャツにショートパンツ姿に、ピンクのウィッグ。夜の国道沿いで季節違いの花のように目立っている。ハロウィーンならばひと月前に終わっているというのに。ウィッグをとらずに彼は運転席に乗り込み、そして嘉手納にあるという自宅に帰っていった。僕は部屋に戻って映像を見返す。すると、三回目の録画で、彼女が「クロリスに」を歌い終わり、振り返るとほぼ同時に、背後の観覧車が回り始めていることに気がついた。小さな奇跡だった。そして、それは『花の名前』という負の循環についての作品を象徴しているようで、少し不気味でもあった。

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基地内のLGBT団体とメールでやりとりをして、やっとそのうちのひとりの男性と会えることになった。北谷、国道58号線沿いのスターバックスで待ち合わせ相手が来るのを待っていた。約束の時間から少し遅れて、ちぐはぐなカウボーイルックに身を包んだアメリカ人が現れた。ハロウィーンの季節だった。挨拶をして、ウッディです、と彼が言って笑う。トイストーリーの仮装だけれど、細身の彼だとどこかちぐはぐで、カウボーイハットは彼の小さな頭には大きすぎるように見える。何より、バンダナが紫色なのはなぜだろう。

彼も、そのドラッグショーに出演したひとりだけれど、兵士ではなく職員として基地で働いているという。兵士の方がよかったな、と思いながら、彼に作っている映像作品『花の名前』の説明をする。ギリシャ神話から続く負の循環を沖縄の状況に連ね、そしてその循環を超越できるような関係性を映像作品として描いてみたい、と。基地勤務の彼にそんなこというのは少しリスキーだなと考えながら、正直に話してみた。美しいね、美しい、と彼が反応する。アートのためなら、なんだってしたいと思ってるよ。基地の中でのイベントに関することだったので、ここまで交渉に何ヶ月もかかっていた。彼が乗り気になってくれているのは嬉しい。その様子に安心して、本題である、ドラッグクイーンとして「クロリスに」をリップシンクで歌ってほしい、という要件を伝えた。

彼は頷き、そして言った。いいね。じつは僕はいま、なんというか、気分障害を抱えてて。医者にかかっている。それもあってサンフランシスコに転勤を希望してたんだ。そしたら、急に来月に転勤が決まった。だから申し訳ないけど、時期的に僕は手伝えないかな。でも、仲間にいい人がいるから、紹介するよ。彼はこれまでもずっとドラッグクイーンとしての活動を続けてきたし、自分ひとりで化粧もできるし。そう言いながら、その仲間にメッセージを送った。返事がきたら、また連絡する。預かった資料も、みんなでちゃんと見るから。そう言って、彼は去っていった。10月。展示は12月に始まる予定で、もう時間がなくなってきていた。やはりアメリカは遠いな、と58号線を挟んで反対側のフェンスを眺めていた。




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(C) 2012-2015 Futoshi Miyagi